668年朝鮮半島では百済に続き高句麗も唐と新羅
の連合軍によって滅ぼされました。大和朝廷に援軍
の要請に来ていた若光はその後、武蔵国に高麗郡を
与えられ、1799人を率いて帰化させたとありま
す。関東における坂東武士の走りであり、坂東(ば
んどう)は半島の朝鮮語読みです。唐、新羅連合軍
による侵略を恐れた天智天皇は、都を近江大津に移
しましたが、672年壬申の乱に勝利した天武天皇
は、再び都を飛鳥に戻しました。百済一辺倒の天智
天皇から、新羅ともうまくやって行ける天武天皇に
代わって、律令国家体制は確立していきます。
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| 三保の松原の日の出 |
壬申の乱の勃発で大津から母尼子姫と共に都を出て
北に向かい関ヶ原、横川、犬上の戦い等で活躍した
長男高市皇子の名前が奈良県高市郡として残ってい
ます。けれども、その子長屋王は藤原一族によって
歴史から消し去られています。
京都府南丹市の男児遺体遺棄の容疑で父親が逮捕さ
れたというニュースが入ってきました。膠着状態が
続いた現場から被害児童が発見されて、一気に捜査
が前に進みました。安達結希さんのご冥福をお祈り
します。
家庭の事情に入れ込めない捜査のもどかしさを露呈
する事件でした。3週間に渡る連日の報道で、様々
な憶測が飛び交ったのもこの事件の特徴です。
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| 𠮷水神社より |
一目千本の名前の由来も豊臣秀吉です。1594年
家康ら大名、茶人等総勢5000人で花見の宴を行
ったそうです。その昔、南北朝時代に後醍醐天皇が
都と定めたこの地は、古くは修験道の役行者が開い
た金峯山寺を中心とする世界遺産です。
数多くある寺院の中で、引かれるようにして立ち寄
ったお寺が天武天皇の勅願寺である桜本坊でした。
671年大海人皇子は皇位継承争いを避け出家し、
吉野に逃れていた。ある冬の夜、雪の吉野山に一本
の桜の咲く夢を見、役行者の高弟・角乗に「天皇の
位につかれる夢告」と教えられた・・・
メインの枝垂れ桜は、前日の雨で時既に遅しという
状況でしたが、受付でお話を聞かせて頂き、登山し
に来たのを忘れてじっくりと拝観させて頂きました。
行きすがら立ち寄った宇多川沿いの桜並木もきれい
でしたが、吉野山の中千本、上千本辺りの桜は満開
で、素晴らしいお花見登山となりました。
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| 大海人皇子蜂起の起点宮滝 |
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| 満月と満開の桜 202604021904 |
例年より少し早い桜の開花で、地元の神社では夜間
ライトアップをするとの案内がありました。我が家
でも照明をつけてみると、満月が浮かび上がってい
ました。iPhoneでの映像です。
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| 宇曾川は運送川が語源? |
荒神山の麓、宇曽川沿いの並木の桜もほぼ満開を迎
えていました。下の写真は、頂上の荒神山神社駐車
場から撮影しました。多景島と竹生島までよく見え
ました。敦賀から唐来道を越えて渡った人たちが目
指して来たルートです。全長112m、4世紀末の
前方後円墳は正にあちらを向いています。
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| 鳥籠山?からタケシマと竹生島 |
息子の引っ越しの手伝いで東京に行って来ました。
近くに都営浅草線の駅があったので浅草まで行って
みようと地下鉄に乗りました。途中、大門という駅
があって、芝の増上寺の大門であることを知り電車
を降りました。予定変更です。徳川家康が甲良豊後
守に命じて建てさせたお寺です。以前に、余呉町の
菅山寺を訪ねたときにもこのお寺の名前を目にしま
した。家康の命により寄進させられた「宋版一切経
七千余巻(重要文化財)」の一部複写版も宝物展示室
に展示されていました。
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| 今は右上のケヤキは倒れてありません |
増上寺は、元は室町時代に真言宗から浄土宗に改宗
した時、より高い悟りの境地へと増上させたのが名
前の由来だそうです。将軍家の絶大な庇護があり、
七大本山の一つです。
行った日が3月20日、ちょうど春のお彼岸で本堂
に於いて法要が執り行われていました。その最後に
西を向いて念仏を唱えるようにとのお言葉でした。
翌日、富士山を東に臨む西の山、竜ヶ岳に登ってき
ました。
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| 竜ヶ岳1,485m |
百済復興を懸けた白村江の戦いは、忠清南道の錦江
近郊へ663年10月4日~5日(天智天皇2年8
月27日~28日)に百済への援軍を送るかたちを
とったが大敗した。660年百済滅亡から663年
白村江への援軍派遣まで大和朝廷内では、様々な意
見の対立があり暗殺が繰り返されていた模様です。
万葉集に額田王(坂田息長氏?)の歌があります。
「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
朴市秦田久津(えちのはたのたくつ)もこの戦いで
亡くなっています。その居宅と思われる名残りが旧
愛知郡秦荘町(愛知郡愛荘町)上蚊古墳群にありま
す。朴氏の本貫は大伽耶の首都高霊と繋がります。
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| 保木山のカタクリ |
時を遡ること約100年、任那復興の命を受けて、
近江毛野(おうみのけぬ)や物部荒甲(もののべの
あらかい)が朝鮮半島南部に渡って行った。現地で
客死した父近江毛野を悼み九州で詩を詠んだとされ
る坂田の大姫と額田王が被って見えてしまいます。
犬上御田鋤とは、小野妹子と並び歴史の教科書に出
てくる遣隋使、遣唐使として中国に行った人。中学
校で学んだ歴史の授業がこのブログのルーツになっ
ています。
犬上とは犬上郡を意味し、琵琶湖の東岸に位置する
鈴鹿山地に源流をもつ犬上川流域の扇状地帯の地域
です。応神天皇の時代に渡来人阿自岐が住み着いた
のが、犬上川左岸の犬上郡豊郷町安食です。池泉多
島式の日本最古の庭園(琵琶湖を象徴?)があり、
阿自岐神社はアジスキタカヒコネの神を祀ります。
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| 池に浮かぶ三つの島 |
孝徳天皇の即位式で「犬上建部君、金の靫(ゆき)
を帯びて、檀の左に立つ」と日本書紀にあります。
犬上氏は単なる地方豪族ではなく大和政権で大きな
影響力を持っていたことがわかります。
「下之郷の歴史」には、下之郷の桂城神社々傳によ
ると祭神は少彦名命をはじめ国常立尊、仁徳天皇、
宇多天皇、敦実親王、左大辨成頼の六柱とされてい
る。…とあります。佐々木氏の租が左大辨成頼だと
のことです。
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| 下之郷の歴史 p30,31 |
渡来人辨氏の本貫は草渓卞氏であることは638.