2026年6月20日土曜日

677. 天武6年677年6月の記録

677年 6月天武天皇が東漢直(やまとのあやのあ

たい)等に対して、7つの罪状を挙げて戒告を行っ

た。崇峻天皇の暗殺は、蘇我馬子の命によるものだ

が、実行犯は東漢直駒。乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺

された際、蘇我氏側で軍事動員した。舎人大兄皇子

の謀反に一族の中で加担する者がいた。その他歴代

朝廷への非協力的な態度があった。天武天皇は戒告

を行いつつ、大恩を降ろしてこれをゆるした。

東漢直は元は琵琶湖の東岸、犬上郡豊郷町に居を構

えた阿自岐の一族で、壬申の乱の犬上川鳥籠山の戦

いでは、一旦、大友側に捕まった大海人皇子を救出

した安食の6人衆がいた。後に犬上氏は朝臣となっ

た。

茶枳尼天曼荼羅の一部
白狐に乗る天女(甲良町所蔵)



2026年6月18日木曜日

676. 韓国語における同音異義語

考えてみて下さい。放火と防火、陣痛と鎮痛、連敗

と連覇。火、痛み、連なるという3つの事柄につい

て、反対の意味を伝えています。もしも、これらの

2つの単語がそれぞれ同じ発音だったとしたら…。

言葉だけで相手に伝えようとすると誤解を招く恐れ

があります。ところが、韓国語に於いては、防火も

放火も방화(バンファ)と発音し、陣痛も鎮痛も진

통(ジントン)と、連敗も連覇も연패(ヨンペ)と

発音します。一時期ハングルのみでの表記を標榜し

て、漢字を教えなかった韓国における現在の漢字学

習の初等学習教材が千字文です。

漢字は外したけれども、儒教の精神は引き継いだ韓

国とは対象的に、仮名文字を造って漢字と共存した

けれども、精神性や道徳性が少し歪んできた日本で

あるとするならば、原点に帰ってみる必要性がある

のではないでしょうか。以下、千字文より・・・

天地玄黄 宇宙洪荒

日月盁昃 辰宿列張

寒来暑往 秋収冬蔵

・・・・

罔談彼短 靡恃己長

朝焼けの田園風景


2026年6月12日金曜日

675. 王仁博士が千字文を携えて渡来

応神天皇の時代に阿自岐の紹介で王仁博士が千字文

を携えて渡来した。その内容とは、「天地玄黄」か

ら「焉哉乎也」まで、4字を1句とする250個の

短句からなる韻文です。その中の句を一組。



恭惟鞠養きょういきくよう) 

豈敢毀傷(きかんきしょう

親の養育を思えば、我が体を痛め傷つけるなどあ

えようか。

10代、20代の死因第1位が自殺という国に於

て忘れられている漢字が並んでいます。

今から「社会を明るくする運動」の講演会に参加

してきます。

2026年6月8日月曜日

674. 大きい木と大きな木

韓国語を勉強してみて日本語の「?」に出会うこと

があります。큰형は大兄で大きい兄ということにな

るのでしょうか。大きい木という時の大きいは形容

詞の連体形で、日本語でも韓国語でも同じルールで

す。では「大きなかぶ」の話がありますが、大きな

木という表現は間違っているのでしょうか❓

日本語には形容動詞というものがあって、きれいな

人というように連体形にするとき「だ」を「な」に

変えるのですが、大きい、小さいは形容詞であり、

形容動詞ではありません。調べてみると、「大きな」

は連体詞という名詞を修飾するためだけに使う言葉

だそうです。この、その、あの、大した、所謂…。

形容詞と間違いやすい連体詞の代表例としては、大

きな、小さな、おかしな、などがあります。

大伽耶、小伽耶があるのですが、大伽耶のことを意

富加羅(おおから)と言った。おおうじ(大氏・多

氏・大生氏)がいた時代に少彦名(すくなひこな)

の神がおられた。大きいと多い、小さいと少ない、

なんとなく言葉の語源を考えさせられるような単語

が並んでいます。

未だ世界文化遺産でなかったことの方が驚きです~






2026年6月3日水曜日

673. 大伽耶と意富加羅国

伽耶、百済、倭の連合軍が新羅を攻撃したため、西

暦400年広開土王が新羅の救援に出兵。金官伽耶

は大きな打撃を受けて伽耶の覇権は大伽耶へと移行

していった。洛東江上流の大伽耶の首都は高霊で、

日本書紀においては、意富加羅国(大加羅国)の王

子が都怒我阿羅斯等とあり、古事記には新羅の王子

天之日矛の話もあるが、大伽耶も阿羅伽耶も新羅も

任那以外は区別すら出来ないこちら側からの視線で

あったようです。さて、大伽耶のことを意富加羅国

といった人たちは、敦賀を足掛かりに塩津海道を経

て琵琶湖の向こうに見える大きな山を意富来山と名

付けたのでしょうか。意富氏、多氏(おおうじ)と

伊勢神宮の親神様である多賀大社、天津彦根命を祀

る多度大社と繋がって行くようです。

多度山から木曽三川と名古屋市街






2026年5月22日金曜日

672.672年 壬申の乱:天下分け目の戦い

天智天皇崩御に伴い即位した大友皇子(弘文天皇)

に対し、出家して吉野に居を構えていた大海人皇子

が兵を挙げたのが、壬申の年の6月で、不破(関ヶ

原)の戦い、息長横河の戦い、犬上川鳥籠山の戦い

を経て、約1ヶ月で大海人皇子が勝利し天武天皇と

なったのが壬申の乱です。父大海人皇子の吉野での

蜂起に呼応して、母尼子姫と共に近江朝廷を出た高

市皇子は、伊賀の柘植で父と合流、その後大海人皇

子は不破の野上に向かい高市皇子を和蹔(わざみ)

に派遣して軍を編成、終結させたとあります。近江

朝廷軍の動きを封じ込める最重要拠点であり、大海

人皇子も和蹔に入り、ここから二手に分かれて進軍

を開始した拠点だというのですが、未だ歴史学者に

よってその場所が特定されていない事実は正にミス

テリーです。以下は和蹔についてのハンちゃんの見

解です。

壬申の乱の後に…伊勢越えの要津

和蹔(わざみ/わざに)とありますが、綿向山の西

側、東近江市和南町には和南城跡が有り、和南川に

沿って藤切神社が鎮座します。この一帯は近江の古

代豪族蒲生氏가모(ガモウ・カモ)の拠点で、北に

向かうと依知秦氏、犬上氏、息長氏、坂田氏へと連

なる古代における琵琶湖東岸の重要拠点でした。こ

れらの豪族は本来大友側につく筈ですが、高市皇子

は母の実家のある犬上氏の拠点甲良町尼子を頼り、

形勢逆転に出た模様です。犬上の戦いでは、大海人

皇子が一時大友軍に囚われたが、安食の6人衆によ

って解放されたとの記録も残っています。後の時代

に行基が湖北から湖東に至るこの地域に四十九の寺

院を建てた。その第49番目のお寺が豊郷町四十九

院にある唯念寺です。行基は更に聖武天皇の時代に

は東大寺の大仏建立も成し遂げました。





2026年5月18日月曜日

671. 霊仙山登山

霊仙山は花の100名山として全国的にも有名で、

この時期全国各地からの登山客で賑わいます。更に

我が家から最も近い1000メートル級のお山でも

あります。5月16日の土曜日、久しぶりにご近所

の山友さん夫妻と一緒に登ってきました。前日の金

曜日、平日であるにも拘わらず午前6時には駐車場

は満車だったという情報を得て、5時出発5時半到

着のスケジュールで挑みました。結果、第1駐車場

の最後の1台に滑り込むことが出来ました。米原市

醒ヶ井方面の林道土砂崩れによる通行止めの影響も

あるようです。岐阜県恵那市を3時に出て来たとい

うご婦人や神奈川県からの4人チームにも出会いま

した。

山芍薬の群生

霊仙山の名前の由来は霊仙三蔵法師であるとのお話
もありますが、ご神体のお虎ヶ池前の鳥居には霊山
神社とあります。大山と同様、りょうぜんと呼ばれ
ていたお山なのでしょう。霊山が霊仙になり、霊仙
山になったのではないでしょうか?

りょうぜん神社