2026年5月1日金曜日

669. 蘇洞門(そとも)の語源は?


2026年も早や三分の一が過ぎました。戦争、殺

人事件、山火事、地震等悲しい出来事が多かったよ

うに思えます。5月でリセットされて、明るい兆し

が見えてくるよう願うばかりです。先日、福井県小

浜市の蘇洞門(そとも)に行って来ました。普通は

若狭フィッシャーマンズ・ワーフからの遊覧船を利

用するのですが、ハンちゃんは山ちゃんですから、

お友達に連れられて、エンゼルラインの山頂付近の

駐車場から下山するという楽しいルートで蘇洞門を

目指しました。若狭湾内にある内外海半島(うちと

みはんとう)の北端に位置します。外門にあたるの

でしょうね。

蘇洞門から見える青葉山

遊覧船

大門と小門

上からの風景

遊覧船の出入りはこちらから



2026年4月18日土曜日

668. 高句麗の滅亡

668年朝鮮半島では百済に続き高句麗も唐と新羅

の連合軍によって滅ぼされました。大和朝廷に援軍

の要請に来ていた若光はその後、武蔵国に高麗郡を

与えられ、1799人を率いて帰化させたとありま

す。関東における坂東武士の走りであり、坂東(ば

んどう)は半島の朝鮮語読みです。唐、新羅連合軍

による侵略を恐れた天智天皇は、都を近江大津に移

しましたが、672年壬申の乱に勝利した天武天皇

は、再び都を飛鳥に戻しました。百済一辺倒の天智

天皇から、新羅ともうまくやって行ける天武天皇に

代わって、律令国家体制は確立していきます。

三保の松原の日の出

壬申の乱の勃発で大津から母尼子姫と共に宮を出て

北に向かい関ヶ原、横川、犬上の戦い等で活躍した

長男高市皇子の名前が奈良県高市郡として残ってい

ます。高市はタケチノミコと読みTAKAICHI

のㅏ ㅣをㅐと発音します。これは韓国式の発音の仕

方ですが、怪事が語源とされる「ケチをつける」と

いう言葉も意味深で、奈良県高市郡はタカイチグン

と読み、総理のお名前もタカイチと言われます。

高市皇子は持統、文武天皇の時代に太政大臣として

政治の中心にいたのですが、その子長屋王は藤原氏

の一族によって歴史から消し去られます。


2026年4月16日木曜日

667. 悲しい結末となりました

京都府南丹市の男児遺体遺棄の容疑で父親が逮捕さ

れたというニュースが入ってきました。膠着状態が

続いた現場から被害児童が発見されて、一気に捜査

が前に進みました。安達結希さんのご冥福をお祈り

します。


家庭の事情に入れ込めない捜査のもどかしさを露呈

する事件でした。3週間に渡る連日の報道で、様々

な憶測が飛び交ったのもこの事件の特徴です。





2026年4月10日金曜日

666. 吉野山、壬申の乱の起点を訪ねて

𠮷水神社より

一目千本の名前の由来も豊臣秀吉です。1594年
家康ら大名、茶人等総勢5000人で花見の宴を行
ったそうです。その昔、南北朝時代に後醍醐天皇が
都と定めたこの地は、古くは修験道の役行者が開い
た金峯山寺を中心とする世界遺産です。



数多くある寺院の中で、引かれるようにして立ち寄
ったお寺が天武天皇の勅願寺である桜本坊でした。
671年大海人皇子は皇位継承争いを避け出家し、
吉野に逃れていた。ある冬の夜、雪の吉野山に一本
の桜の咲く夢を見、役行者の高弟・角乗に「天皇の
位につかれる夢告」と教えられた・・・
メインの枝垂れ桜は、前日の雨で時既に遅しという
状況でしたが、受付でお話を聞かせて頂き、登山し
に来たのを忘れてじっくりと拝観させて頂きました。


行きすがら立ち寄った宇多川沿いの桜並木もきれい
でしたが、吉野山の中千本、上千本辺りの桜は満開
で、素晴らしいお花見登山となりました。


大海人皇子蜂起の起点宮滝



2026年4月3日金曜日

665. 満月と満開の桜のコラボ

 

満月と満開の桜 202604021904
例年より少し早い桜の開花で、地元の神社では夜間

ライトアップをするとの案内がありました。我が家

でも照明をつけてみると、満月が浮かび上がってい

ました。iPhoneでの映像です。

宇曾川は運送川が語源?
荒神山の麓、宇曽川沿いの並木の桜もほぼ満開を迎
えていました。下の写真は、頂上の荒神山神社駐車
場から撮影しました。多景島と竹生島までよく見え
ました。敦賀から唐来道を越えて渡った人たちが目
指して来たルートです。全長112m、4世紀末の
前方後円墳は正にあちらを向いています。
鳥籠山?からタケシマと竹生島

2026年3月30日月曜日

664. 名前のルーツ 増上寺

息子の引っ越しの手伝いで東京に行って来ました。
近くに都営浅草線の駅があったので浅草まで行って
みようと地下鉄に乗りました。途中、大門という駅
があって、芝の増上寺の大門であることを知り電車
を降りました。予定変更です。徳川家康が甲良豊後
守に命じて建てさせたお寺です。以前に、余呉町の
菅山寺を訪ねたときにもこのお寺の名前を目にしま
した。家康の命により寄進させられた「宋版一切経
七千余巻(重要文化財)」の一部複写版も宝物展示室
に展示されていました。
今は右上のケヤキは倒れてありません

増上寺は、元は室町時代に真言宗から浄土宗に改宗
した時、より高い悟りの境地へと増上させたのが名
前の由来だそうです。将軍家の絶大な庇護があり、
七大本山の一つです。
行った日が3月20日、ちょうど春のお彼岸で本堂
に於いて法要が執り行われていました。その最後に
西を向いて念仏を唱えるようにとのお言葉でした。
翌日、富士山を東に臨む西の山、竜ヶ岳に登ってき
ました。
竜ヶ岳1,485m






2026年3月26日木曜日

663. 白村江の戦い

百済復興を懸けた白村江の戦いは、忠清南道の錦江

近郊へ663年10月4日~5日(天智天皇2年8

月27日~28日)に百済への援軍を送るかたちを

とったが大敗した。660年百済滅亡から663年

白村江への援軍派遣まで大和朝廷内では、様々な意

見の対立があり暗殺が繰り返されていた模様です。

万葉集に額田王(坂田息長氏?)の歌があります。

「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば

潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

朴市秦田久津(えちのはたのたくつ)もこの戦いで

亡くなっています。その居宅と思われる名残りが旧

愛知郡秦荘町(愛知郡愛荘町)上蚊古墳群にありま

す。朴氏の本貫は大伽耶の首都高霊と繋がります。

保木山のカタクリ

時を遡ること約100年、任那復興の命を受けて、

近江毛野(おうみのけぬ)や物部荒甲(もののべの

あらかい)が朝鮮半島南部に渡って行った。現地で

客死した父近江毛野を悼み九州で詩を詠んだとされ

る坂田の大姫と額田王が被って見えてしまいます。