2009年7月25日土曜日

29.謎の多い浮世絵師 写楽

 写楽の作品が世に出たのは、1794年(寛政6年)。 活動期間は1年にも満たなかったといいます。
しかし、江戸時代の浮世絵として、誰もが知っている作品を挙げると、写楽の作品は、ひとつ、二つではないと思います。 いや、他の人物の作品は別として、写楽の作品かどうかは判別できるくらい現代においてよく知られています。 しかし、当時はどうだったんでしょうか。 歌舞伎役者のポスターとして、ちょっとくせのあるあの描き方は、役者たちにとっても、歌舞伎ファンにとっても、そう面白くはうつらなかったのではないでしょうか。 そのことが、作家としての寿命を縮めたのか、あるいは他に何か理由があったのか。
 梅原猛氏は、歌川豊国が写楽と同一人物だという説を解かれます。 当時の時代背景、技法、歌川豊国の姓、倉橋(くらはし)を逆から読んで(シャラク)としたところにも根拠があると。
東洲斎写楽 この名前があるのに、写楽斎ともいい、しゃらくさいとたんかを切るようなイメージ。 ここにも、歌川豊国が自身の別の内面を表現するために、このペンネームを使ったんだろうとする根拠があるのかも知れません。
 韓国では、この写楽について、もしかしたら実は韓国人?という説が、あちらこちらでささやかれています。金弘道という人物が、日本に行って仕事をしていた記録があるのに、写楽が活躍したちょうどその時期の記録のみが残っていない、空白の時間だというのです。逆に写楽はというと、寛政6年の約10ヶ月の活動で、今の日本人で知らない人がいないくらいの歴史上の人物となったにもかかわらず、生没年不詳の謎多き人物である訳です。
 いずれにせよ写楽の研究はいろいろな方面の研究者の手によって、今後ますます研究がなされていくと思いますが、客観的なデータの蓄積をもとになしてもらいたいものです。