情報を容易く手に入れることができるようになりま
した。近江毛野(けな)と物部荒甲(あらかひ)。
この人たちはどこに住んでいたのだろうか?
古事記には物部荒甲とあるのに、敢えて物部麁鹿火
と書き、荒神山古墳や甲良氏の歴史を無視するかの
ような学者の姿勢には、愛想を尽かす思いでありま
す。特に物部荒甲は25代武烈天皇に仕え、継体天皇
を擁立したとか、大連として筑紫の国に赴き、任那
の割譲の件で百済、新羅と交渉し、磐井の乱を平定
し筑紫より以西を治めたという。
渡来人が持ち込んだ様々な技術や文物、その物の部
民が持ち込んだ文化が奈良の都に運ばれて行った。
神功皇后の三韓征伐のお話は伝説の域を脱せないが
神功皇后の父が息長宿祢で母が葛城高頼媛であるこ
とからも分かるように、近江の琵琶湖の北東地域に
住んでいた渡来系の人々が、筑紫の国に赴きその地
域を治めたことは高良大社が物語っている。
百済人の阿自岐氏が新羅の案内を通じて日本海経由
で敦賀に降り立ち琵琶湖に入って、荒神山を目印に
犬上郡に入った。豊郷である。また、高句麗からの
渡来人も敦賀を経てやってきた。甲良氏である。
日本からの朝鮮半島へのルートは瀬戸内海経由が中
心。岡山県牛窓等の湊を経て出ていった。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな -額田王-
渡来系氏族を、西漢氏(かわちのあやうじ)河内、
東漢氏(やまとのあやうじ)大和と表現するのは、
元はと言えば神功皇后の子である応神天皇の時代に
琵琶湖に降り立った阿自岐氏が左京(湖東)に、阿
自岐氏が連れて来た王仁博士が右京(湖西)に本拠
をおいて文化を伝えたことからはじまる。
さて、ここからは現代のお話です。
以前は在日というと韓国・朝鮮の人が主流でしたが
その後、日系ブラジル人の方がたくさん入って来ら
れて、滋賀県ではその数が9251人(R5,12末)だ
そうです。そして近年はベトナムからの技能実習生
が多くなって9585人(同)と昨年、外国人の人口
トップになったそうです。2050年までには人口が
激減と言われていますが、その解消方法はこのよう
な定住外国人の方々とうまく共生して暮らしていく
しかないと思われます。言葉の壁もさることながら
様々な文化の違いを理解し合おうとする努力は互い
に必要となってきます。
ひとくくりに外国人と言って、日本人とそれ以外と
いうような認識をするのでは先が思いやられます。
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