2024年2月23日金曜日

568. 古代史を紐解いて見えて来るもの

様々な時代的な恵沢により以前には知り得なかった
情報を容易く手に入れることができるようになりま
した。近江毛野(けな)と物部荒甲(あらかひ)。
この人たちはどこに住んでいたのだろうか?
古事記には物部荒甲とあるのに、敢えて物部麁鹿火
と書き、荒神山古墳や甲良氏の歴史を無視するかの
ような学者の姿勢には、愛想を尽かす思いでありま
す。特に物部荒甲は25代武烈天皇に仕え、継体天皇
を擁立したとか、大連として筑紫の国に赴き、任那
の割譲の件で百済、新羅と交渉し、磐井の乱を平定
し筑紫より以西を治めたという。
渡来人が持ち込んだ様々な技術や文物、その物の部
民が持ち込んだ文化が奈良の都に運ばれて行った。
神功皇后の三韓征伐のお話は伝説の域を脱せないが
神功皇后の父が息長宿祢で母が葛城高頼媛であるこ
とからも分かるように、近江の琵琶湖の北東地域に
住んでいた渡来系の人々が、筑紫の国に赴きその地
域を治めたことは高良大社が物語っている。
百済人阿自岐氏が新羅の案内を通じて日本海経由
で敦賀に降り立ち琵琶湖に入って、荒神山を目印に
犬上郡に入った。豊郷である。また、高句麗からの
渡来人も敦賀を経てやってきた。甲良氏である。
日本からの朝鮮半島へのルートは瀬戸内海経由が中
心。岡山県牛窓等の湊を経て出ていった。
 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 
   潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな -額田王-
渡来系氏族を、西漢氏(かわちのあやうじ)河内、
東漢氏(やまとのあやうじ)大和と表現するのは、
元はと言えば神功皇后の子である応神天皇の時代に
琵琶湖に降り立った阿自岐氏が左京(湖東)に、阿
自岐氏が連れて来た王仁博士が右京(湖西)に本拠
をおいて文化を伝えたことからはじまる。



さて、ここからは現代のお話です。
以前は在日というと韓国・朝鮮の人が主流でしたが
その後、日系ブラジル人の方がたくさん入って来ら
れて、滋賀県ではその数が9251人(R5,12末)だ
そうです。そして近年はベトナムからの技能実習生
が多くなって9585人(同)と昨年、外国人の人口
トップになったそうです。2050年までには人口が
激減と言われていますが、その解消方法はこのよう
な定住外国人の方々とうまく共生して暮らしていく
しかないと思われます。言葉の壁もさることながら
様々な文化の違いを理解し合おうとする努力は互い
に必要となってきます。
ひとくくりに外国人と言って、日本人とそれ以外と
いうような認識をするのでは先が思いやられます。

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