という冊子が目に留まった。海と湖を結ぶ交通の要
衝という題材で愛発関(あらちのせき)について書
かれていた。敦賀市が5年かけて探したが遺構が見
つからなかったとのこと。大宝律令によって制度が
確立された三関(愛発関、不破関、鈴鹿関)は、い
ずれも近江から越前、美濃、伊勢に出入りする経路
を指します。特に愛発関は、新羅や伽耶諸国からの
渡来人が来た道であり、余呉湖周辺に住んだ人たち
や琵琶湖の周囲に定住した人の中から逸材が都に馳
せ参じ、朝廷の難題解決者として遣隋使、遣唐使等
として犬上御田鋤、小野妹子、近江毛野、物部荒甲
等が活躍した模様です。菅原道真もそのDNAを持
つ逸材として京都の公家の養子となっていった。
しかしながら、それらの人たちの活躍の場は赴いた
先の任地であることから地元の人はその偉業につい
て知らない。家康に認められて、日光東照宮や江戸
城天守、増上寺等を建てた棟梁の甲良宗廣は、東京
都新宿区に市谷甲良町の名を残しましたが、晩年、
帰郷した時、甲良町法養寺の集落は水害で跡形も無
かったので、私財を全て百済寺復興に投じて仏門に
入ったと言われています。藤堂高虎と共に甲良三大
偉人に名を連ねています。
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