2024年3月9日土曜日

570. 愛発関、不破関、鈴鹿関の三関とは

長浜教室のさざなみホールの図書館で、長浜みーな

という冊子が目に留まった。海と湖を結ぶ交通の要

衝という題材で愛発関(あらちのせき)について書

かれていた。敦賀市が5年かけて探したが遺構が見

つからなかったとのこと。大宝律令によって制度が

確立された三関(愛発関、不破関、鈴鹿関)は、い

ずれも近江から越前、美濃、伊勢に出入りする経路

を指します。特に愛発関は、新羅、高句麗からの渡

来人が来た道であり、余呉湖周辺に住んだ人たち、

琵琶湖の周囲に定住した人の中から逸材が都に馳せ

参じ、朝廷の難題解決者として遣隋使、遣唐使等と

して犬上御田鋤、小野妹子、近江毛野、物部荒甲等

が活躍した模様です。菅原道真もそのDNAを持つ

逸材として京都の公家の養子となっていった。

しかしながら、それらの人たちの活躍の場は行った

先の任地であることから地元の人はその偉業につい

て知らない。家康に認められて、日光東照宮や江戸

城天守、増上寺等を建てた棟梁の甲良宗廣は、京都

の吉田神社造営の功により豊後守の称を得たとあり

ます。筑後国の高良大社のお隣ということで豊後守

を名乗ったのでしょうか?こればかりは宗廣君に聞

かないと分かりません…


0 件のコメント: