弥生時代から律令制が確立する奈良時代初頭までに、朝鮮半島や大陸から日本に渡ってきた人の数は、一説には数万人から数十万人とも言われます。
なかでもひときわ大きな存在感を見せるのが天日槍です。
アカルヒメを妻とした"新羅ノ国王之子”のアメノヒボコが、倭国に逃れた妻を追って“参渡り来た”。
この時、7~8点の神宝を持ってきた。天皇はアメノヒボコに宍粟邑のほか淡路島の出浅邑に居住を認めた。
アメノヒボコは、“天皇が居住する場所を許されるなら自ら諸国を歴ってそのうえで賜りたい”と申し出て、天皇がこれを許したので、アメノヒボコは諸国巡歴に旅立った。
“.天日槍、宇治川よりさかのぼりて、北のかた近江の国の吾名邑に入りて暫く住む。また、近江より若狭国を経て西のかた但馬国に到りて則ち住居を定む。是を以て近江国の鏡村の谷の陶人は天日槍の従人なり”。
吾名邑・・・現在の滋賀県草津市穴村町は古代朝鮮の安羅国からの渡来人が数多く住んだところ。 (他に竜王町説、米原市説もある)
鏡村・・・古墳時代後期に始まる近江最大の須恵器生産地。現在の竜王町と野洲市にまたがる鏡山古窯跡群。
息長(おきなが)氏・・・神功皇后は、ヒコイマス王の子孫で、またの名を息長帯比売(オキナガタラシヒメ)という。
近江国坂田郡(現・米原市)を根拠とした渡来系豪族。伊吹山、金糞岳山麓から磁鉄鉱を採掘し、鉄生産を行った。
渡来人の移住と定着というテーマを考えるとき、アメノヒボコの伝説はわかりやすいものであり、渡来系集団が、農業技術や金属加工技術、呪術等を多く伝えて、日本国内に定着していった経緯が伝えられていると思います。
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