応神天皇の時代に百済の近肖古王が阿直岐を送った。
阿直岐は馬2匹を贈り物として携えやって来て馬の育て方
と乗馬を伝えた。
その後応神天皇は、阿直岐が経書の造詣が深いことを知り
太子の莬道稚郎子(ウチノキイロチコ)の教育担当とし、
“そなたの国のそなたよりも優れた博士がいるか?”と尋ねた。
そこで阿直岐は、“王仁という博士がいる”と推薦した。
それを聞いた倭王は百済に使臣を派遣して王仁博士を連れて
きた。その後百済の文化と学術が日本に伝授され日本古代
文化の足がかりと成った。
その応神天皇の母親が神功皇后であり、神功皇后の父方が
息長氏、母方が葛城高良氏である。神功皇后が九州、朝鮮へ
向かったので筑後の国一の宮である高良大社が存在する。
甲良町で発掘された貨幣 |
阿直岐は王仁博士を日本に迎えた功により豊郷町に食邑を
与えられその住民は領主の阿直岐を地域の守護神とした。
これが阿自岐神社の由来となる。阿直岐は畜産の技術も伝え
たので近江牛の発祥にもつながる。
ひらかなの“あじき”の文字の元の漢字は“阿自岐”である。
ハングルでは아직기であり漢字では阿直岐となる。
なお古事記では阿直岐を阿知吉師、王仁博士を和邇吉師と
記されているが吉師は高貴な人の称号である。
また、琵琶湖を挟んで東に阿知吉師、西に和邇吉師の領地
が与えられたことが、その後孫の時代になって犬上御田鋤、
小野妹子が遣隋使、遣唐使として送られるベースとなった。
大津市の和邇駅のそばに小野神社があり시루떡(蒸し餅)の
神様として“しとぎ祭り”が毎年行われている。
1 件のコメント:
コメントありがとうございます。
後の時代の天智天皇や聖武天皇は滋賀に都をとしましたがいずれも・・・
信長の時代にも安土城が・・・
コメントを投稿