広島に住む学生の頃の友人が、出張の帰途に立ち寄
ってくれました。
野幸(やさち)にて |
孔子の論語の中の一文です。この四書五経を伝えた
のも渡来人の五経博士と言われた人たちです。
応神天皇の時代に百済から来たこれらの人々は、果
たしてどのような経路で琵琶湖の周辺に降り立った
のでしょうか?
百済は敦賀に向かう経路を持ち合わせておらず、新
羅や加羅の案内を通じて、対馬海流に乗って「から
き道」をやって来たことは紫式部も知っていた事実
のように思われます。そのような航海術も新羅のお
家芸でした。魏志倭人伝は東と南を取り違えていた
ということを読んだことがあります。今の時代にあ
っても曺国さんのことを曹の文字を使用し、卞の文
字が弁、辨、辯と通ずるということもほとんどネッ
ト上に出て来ないのを見ると、この分野から目を背
けてきた日本人の気質が手に取れるようです。大い
に研究の余地ありと言えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿