息子の引っ越しの手伝いで東京に行って来ました。
近くに都営浅草線の駅があったので浅草まで行って
みようと地下鉄に乗りました。途中、大門という駅
があって、芝の増上寺の大門であることを知り電車
を降りました。予定変更です。徳川家康が甲良豊後
守に命じて建てさせたお寺です。以前に、余呉町の
菅山寺を訪ねたときにもこのお寺の名前を目にしま
した。家康の命により寄進させられた「宋版一切経
七千余巻(重要文化財)」の一部複写版も宝物展示室
に展示されていました。
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| 今は右上のケヤキは倒れてありません |
増上寺は、元は室町時代に真言宗から浄土宗に改宗
した時、より高い悟りの境地へと増上させたのが名
前の由来だそうです。将軍家の絶大な庇護があり、
七大本山の一つです。
行った日が3月20日、ちょうど春のお彼岸で本堂
に於いて法要が執り行われていました。その最後に
西を向いて念仏を唱えるようにとのお言葉でした。
翌日、富士山を東に臨む西の山、竜ヶ岳に登ってき
ました。
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| 竜ヶ岳1,485m |
百済復興を懸けた白村江の戦いは、忠清南道の錦江
近郊へ663年10月4日~5日(天智天皇2年8
月27日~28日)に百済への援軍を送るかたちを
とったが大敗した。660年百済滅亡から663年
白村江への援軍派遣まで大和朝廷内では、様々な意
見の対立があり暗殺が繰り返されていた模様です。
万葉集に額田王(坂田息長氏?)の歌があります。
「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
朴市秦田久津(えちのはたのたくつ)もこの戦いで
亡くなっています。その居宅と思われる名残りが旧
愛知郡秦荘町(愛知郡愛荘町)上蚊古墳群にありま
す。朴氏の本貫は大伽耶の首都高霊と繋がります。
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| 保木山のカタクリ |
時を遡ること約100年、任那復興の命を受けて、
近江毛野(おうみのけぬ)や物部荒甲(もののべの
あらかい)が朝鮮半島南部に渡って行った。現地で
客死した父近江毛野を悼み九州で詩を詠んだとされ
る坂田の大姫と額田王が被って見えてしまいます。
犬上御田鋤とは、小野妹子と並び歴史の教科書に出
てくる遣隋使、遣唐使として中国に行った人。中学
校で学んだ歴史の授業がこのブログのルーツになっ
ています。
犬上とは犬上郡を意味し、琵琶湖の東岸に位置する
鈴鹿山地に源流をもつ犬上川流域の扇状地帯の地域
です。応神天皇の時代に渡来人阿自岐が住み着いた
のが、犬上川左岸の犬上郡豊郷町安食です。池泉多
島式の日本最古の庭園(琵琶湖を象徴?)があり、
阿自岐神社はアジスキタカヒコネの神を祀ります。
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| 池に浮かぶ三つの島 |
孝徳天皇の即位式で「犬上建部君、金の靫(ゆき)
を帯びて、檀の左に立つ」と日本書紀にあります。
犬上氏は単なる地方豪族ではなく大和政権で大きな
影響力を持っていたことがわかります。
「下之郷の歴史」には、下之郷の桂城神社々傳によ
ると祭神は少彦名命をはじめ国常立尊、仁徳天皇、
宇多天皇、敦実親王、左大辨成頼の六柱とされてい
る。…とあります。佐々木氏の租が左大辨成頼だと
のことです。
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| 下之郷の歴史 p30,31 |
渡来人辨氏の本貫は草渓卞氏であることは638.
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| 瀧樹神社のユキワリイチゲ |
韓国に於いて新年度は3月始まりですから、アメリ
カの新学期9月始まりと半年のずれがありますが、
ここ日本に於いては新学期、新年度とも4月始まり
です。今のこの時期は学生さんにとっても、社会人
にとっても、とても気をもむ時間が過ぎていること
と思われます。直接移動が無くても、地元の自治会
に於ける役割分担が変わったり、新しい仕事を任さ
れたりと引継ぎが多いのもこの時期の特徴です。
少し寒の戻りで寒くなったり暖かくなったり、ワッ
タリカッタリしていますが、鼻水が出て喉が痛いの
は花粉のせいなのでしょうか?
4月からの新しい環境にうまく適応できるように、
しっかりと準備をして頂きたいものです。
さて、小生も関心のある郷土の歴史について、更に
学びを深めるべく、チャットGPT君とジェミニ君
とパープレキシティー君にお手伝い頂きながら、新
しいことを始めることに致しました。1月行っちゃ
った。2月逃げちゃた。3月去っちゃった~と言っ
ている間に、既に3分の1が過ぎちゃいましての、
今月初めてのブログ更新です。
その間、イランに於いて戦争が起きました、エジプ
ト行きの旅行がキャンセルとなり、関空まで行って
引き返して来られたお友達もおられます。行って、
帰って来れないよりは、行けなくなって良かった。
一般的に、戦争を原因とするリスクを取り扱う保険
はありませんから、そのような極限状況が、身近か
に存在する今の世の中は、異常事態であると言わざ
るを得ません。
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| 藤切神社の苔むす参道 |