百済復興を懸けた白村江の戦いは、忠清南道の錦江
近郊へ663年10月4日~5日(天智天皇2年8
月27日~28日)に百済への援軍を送るかたちを
とったが大敗した。660年百済滅亡から663年
白村江への援軍派遣まで大和朝廷内では、様々な意
見の対立があり暗殺が繰り返されていた模様です。
万葉集に額田王(坂田息長氏?)の歌があります。
「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
朴市秦田久津(えちのはたのたくつ)もこの戦いで
亡くなっています。その居宅と思われる名残りが旧
愛知郡秦荘町(愛知郡愛荘町)上蚊古墳群にありま
す。朴氏の本貫は大伽耶の首都高霊と繋がります。
![]() |
| 保木山のカタクリ |
時を遡ること約100年、任那復興の命を受けて、
近江毛野(おうみのけぬ)や物部荒甲(もののべの
あらかい)が朝鮮半島南部に渡って行った。現地で
客死した父近江毛野を悼み九州で詩を詠んだとされ
る坂田の大姫と額田王が被って見えてしまいます。

0 件のコメント:
コメントを投稿