西明寺本堂が高麗尺で建てられていることの意味を
もう少し深堀りしてみようと思います。
その前に…
2020年10月号の『広報こうら』より일본최고의 목조건축[법륜사에필적]아스카시대의 회화 보살 그림!
이번에 히로시마대학과 오사카교육대학의 합동조사를 인해 호동삼산으로 유명한 서명사 국보 본당에 있는 2개의 기드둥주를 적외선사진으로 짤영했는데 육안으로는 잘 보이지 않는 팔대 보살 입상이떠올랐습니다.게다가 보살들의 체형이나 면보는 너무나 오래된 모습으로 7세기 중반의 법륜사 백제관세음상 타마무시즈시의 그림등을 방불케 하는 모습입니다.그위에 주두부에는 보상화당조문이 있고 배경에는 젹란운이나 난증운 같은 두꺼운 그름이 싸여있고 보살의 모리위까지 있습니다.이러한 표현의 특칭을 보면 중국 돈황석굴벽화,귀의 표현은 수나라시대(581-618) 이전의 전통을 이어밨고있어 손바닥의 주름 수법도 수나라시대에 합치하고 있습니다.8세기초의법륜사금당벽화등 8세기의 일본 벽화들이 모두 초당(618~712)이후 양식을 채용하는 것과 비교하면 이 그림들이 오래된 요소가 가득합니다.또 을퉁불퉁한(槍鉋仕上げ)마무리 곡면에 선을 힘있게 그리는 필력도 고대 화가의 우수한 수완을 을 증명하는 요소의 하나입니다.
日本最古の木造建築 「法隆寺に匹敵」飛鳥時代の絵画菩薩絵!
このほど、広島大学と大阪教育大学の合同調査で、湖東三山として名高い西明寺国宝本堂の須弥壇前方に 立つ二本の柱を赤外線写真で撮影したところ、肉眼では香煙等の煤で真っ黒にしか見えない下から、八大 菩薩立像が浮かび上がりました。しかも、菩薩たちの体型や面貌は極めて古様で、7世紀中頃の法隆寺 百済観音像や玉虫厨子の扉絵などを彷彿とさせるものです。 さらに、柱頭部には奔放とも大胆とも称し得る一種野放図な宝相華唐草文があしらわれ、背景には積乱雲や 乱層雲を思わせる重く厚い雲塊が積み上がり、菩薩たちの頭上にまで広がっています。
これらの表現上における特徴を摘記すれば、中国敦煌石窟壁画に照らして、耳の表現は隋代(581年~ 618年)以前の伝統を引き継いでおり、掌の皺の描き方もまた、隋代の表現に合致しています。8世紀 初頭の法隆寺金堂壁画以下、同世紀の日本の遺例がいずれも初唐(618年~712年)以降の様式を採用して いるのに比べて、本図の方が古い要素に満ちているのです。また、槍鉋仕上げによる凹凸著しい曲面を ものともせず、線描を力強く引き切る筆力も、古代の画家の優れた力量を証明する要素の一つです。
通説では、西明寺本堂は鎌倉初期(13世紀前半)に創建され、南北朝期(14世紀前半)に現在の形に 改築されたとなっていますが、実はその歴史を語る古文書は全く残っておりません。しかし、西明寺が 所在する犬上郡は、最後の遣隋使と最初の遣唐使を両方務めた有名な犬上御田鋤で知られる犬上氏の本拠地 であり、8世紀には画工司に名を連ねる渡来系の画家集団、簀秦氏(すのはたし)も早くからこの地に 居を構えていました。
天武14年(685年)、『諸国に、家毎に、仏舎を作りて、乃ち仏像及び経を置きて、礼拝供養せよ』との 詔が発布されますが、その前年には「八色の姓」で豪族としては事実上最高位の「朝臣」を賜っていた 犬上氏もまた、氏寺を建立したことは想像に難くないでしょう。世界最古の木造建築と謳われる法隆寺 金堂は、天皇が天蓋を施入して仁王会を行った持統7年(693年)頃までの建立とされていますが、この度新たに発見された柱絵は、西明寺本堂自体の建築年代が、これを遡る可能性をも示唆するものと思われます。新たに発見された柱絵は、西明寺本堂自体の建築年代が、これを遡る可能性をも示唆するものと思われます。
以上ことから、今回の発見は美術史のみならず、建築史、文化史にも広く重要な意味を持つと考えられ ます。
(広島大学大学院 安嶋紀昭教授の資料より引用)
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