2024年12月25日水曜日

605. ChatGPTで西明寺について尋ねてみた

紅葉の季節に京都高雄西明寺を神護寺、高山寺と

共に訪ねました。こちらは都が、奈良から京都に移

った794年を前後して其々建てられた寺院です。


秦酒君は雄略天皇15年、都に上り大蔵長官として

働き、山背国で禹豆麻佐の称号を賜った。その子孫

の秦河勝が604年太秦広隆寺を建立し、聖徳太子

のブレーンとして賀茂川、桂川の灌漑と水田開発、

養蚕事業を行った。飛鳥時代です。

さて本題に戻ります。滋賀県の湖東三山西明寺こち

らも紅葉と二匹の黒猫でNHKでも取り上げられまし

た。その本堂は高麗尺3間で建てられその後5間、

7間にと増築されたということについてChatGPTに

尋ねてみました。


湖東三山の一つである**西明寺(滋賀県犬上郡甲良町)**の本堂は、建築史的に大変興味深い構造を持っています。おっしゃる通り、「高句麗尺」に基づいて建てられたとされ、その後増築を経て現在の姿になったと考えられています。以下に詳しく解説します。


1. 高句麗尺三間の構造

高句麗尺とは、朝鮮半島の高句麗で用いられていた建築基準の尺(長さの単位)を指します。

日本の古代建築には渡来人の技術が取り入れられており、特に寺院建築においてその影響が顕著です。

西明寺の本堂は、創建時に高句麗尺で三間構造を持つ簡素な建物として建てられたと推定されます。


2. 増築による拡張

初期の本堂が三間構造だった後、信仰の広がりや参拝者の増加に伴い、徐々に増築されました。

五間(ごけん)構造:建物が拡張され、より大きな空間が確保されました。

七間(しちけん)構造:最終的には七間構造となり、現在の堂々とした本堂の規模に至っています。

この増築は、寺院の信仰の発展や地域の繁栄を反映していると考えられます。


3. 西明寺本堂の建築的特徴

**本堂(国宝)**は、鎌倉時代に再建されたもので、初期構造に増築を重ねた痕跡がうかがえます。

屋根は寄棟造で檜皮葺(ひわだぶき)、正面七間・側面七間の堂々たる構造を持っています。

現在の本堂は増築後の姿を保ちながら、初期の高句麗尺の影響を示す基礎部分が残されている可能性があります。


4. 高句麗尺の意義

高句麗尺の使用は、渡来人や朝鮮半島との文化的つながりを象徴しています。

湖東地方は古代から渡来人の活動が活発だった地域であり、彼らがもたらした技術が寺院建築に反映されていることは十分に考えられます。


結論


西明寺の本堂は、創建当初は高句麗尺を基準にした三間構造であり、その後五間、七間へと拡張されました。この変遷は、寺院建築の発展と地域信仰の成長を示すものであり、渡来人文化の影響を深く刻んだ建築物といえるでしょう。

2024年12月13日金曜日

604. ChatGPTで高句麗尺の建物について尋ねてみた

 日本において、高句麗尺に基づいて建てられた可能性がある建築物は、明確に記録されているものは非常に少ないですが、渡来人の影響を受けた古代建築の中にその痕跡が見られる可能性があります。以下に考えられる例を挙げます。


1. 法隆寺(奈良県)

法隆寺の建築には渡来人の技術が大きく関与しており、朝鮮半島由来の建築技術や設計思想が採用されています。

五重塔や金堂などの基準寸法に高句麗尺が使用されていた可能性も指摘されていますが、これについては明確な証拠が不足しており、学術的には推測の域を出ません。


2. 飛鳥寺(奈良県)

日本最古の本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)は、渡来系氏族の蘇我氏が建立したもので、建築において朝鮮半島の技術が取り入れられています。

飛鳥寺の創建時の設計に高句麗尺が使われた可能性が考えられます。



3. 広隆寺(京都府)

京都の広隆寺は、渡来系氏族の**秦氏(はたし)**によって創建された寺院で、弓月君の伝承に深く結びついています。

秦氏は朝鮮半島から移住した一族であり、高句麗や新羅の技術を持ち込んだ可能性が高いため、高句麗尺が建築基準に反映されたかもしれません。


4. 古墳時代の渡来人関連建造物

高句麗尺に基づいた建築がもっとも利用された可能性があるのは、古墳時代の渡来人が関与した建築物です。

滋賀県や近畿地方における渡来人の活動範囲では、高句麗尺が木造建築や祭祀施設に使われた痕跡があるかもしれませんが、これらは現存していない可能性が高いです。


5. 石塔寺(滋賀県)

滋賀県の石塔寺は、渡来人の影響を受けた寺院とされており、建築基準に高句麗尺が使われた可能性があります。


高句麗尺が確認されていない理由

日本で高句麗尺が建築に直接使用された記録は少なく、多くの場合、後の日本独自の建築尺(曲尺や鯨尺)に置き換わったため、その痕跡が不明瞭になっています。

また、現存する建築物が平安時代やそれ以降に再建された場合、初期の建築基準が分からなくなることも多いです。


研究の可能性


高句麗尺が実際に使われた建物を特定するには、考古学的な発掘調査や初期建築物の寸法分析が必要です。湖東三山の西明寺のように、渡来人の影響を受けた地域で高句麗尺が使用されていた痕跡を探ることは、今後の研究課題といえます。

603. ChatGPTで渡来人について尋ねてみた

 おっしゃる通り、**渡来人(トライジン)**の影響は、敦賀や愛発関(あらちのせき)を通じて近江地方や琵琶湖周辺にもたらされたことが知られています。以下に詳しく説明します。


1. 敦賀・愛発関を通じた渡来人のルート


敦賀(福井県)や愛発関は、朝鮮半島や中国大陸から日本列島へ渡ってきた人々が通過する主要なルートの一つでした。

敦賀港は、日本海側の重要な玄関口であり、渡来人が最初に上陸する地として利用されました。

そこから陸路で**近江地方(琵琶湖周辺)**へ進み、大和地方やさらに西日本各地へと影響を広げました。


2. 渡来人の影響力と技術の伝播


渡来人は農業、鉄器、織物、建築、文字(漢字)などの先進的な技術を日本に持ち込み、地方豪族やヤマト政権に大きな影響を与えました。

具体的には:

阿自岐(あじき)

阿自岐は、近江地方に渡ってきた渡来人で、鉄器や金属加工の技術をもたらしたと考えられています。

和珥(ワニ)博士

ワニ氏は渡来系の豪族で、琵琶湖周辺を拠点に活動していたとされます。文化や技術の伝播を担う役割を果たしました。

弓月君(ゆづきのきみ)

弓月君は、朝鮮半島の加羅(伽耶)から渡来したとされる一族で、養蚕や機織りなどの技術を日本にもたらしました。近江地方にも影響を与えた可能性がありますが、主に大和地方で活躍しました。


3. 近江地方と渡来人のつながり


近江地方(滋賀県)は琵琶湖を中心とした交通の要衝であり、渡来人が広範囲に影響を与える拠点として機能しました。特に:

鉄器の普及

渡来人が持ち込んだ鉄器技術が近江地方で広まり、大和政権の発展に貢献しました。

文化・宗教の普及

仏教や儒教思想など、渡来人が伝えた新しい文化がヤマト政権に影響を与え、後の飛鳥文化の基盤となりました。

奈良県斑鳩の法隆寺


4. 敦賀や近江地方が果たした役割


敦賀や琵琶湖周辺は、渡来人が技術や文化を伝えるための「中継地点」として重要な役割を果たしました。その影響が後にヤマト政権の中心地である奈良盆地に波及し、日本全体の発展につながったと考えられます。


結論


渡来人の活動と影響は、敦賀や愛発関を経由して琵琶湖周辺へと広がり、その地域の豪族たちやヤマト政権に新しい技術や文化をもたらしました。阿自岐やワニ博士、弓月君といった人物たちは、その流れの中で重要な役割を果たしたといえますね。

2024年12月5日木曜日

602. 韓国非常戒厳令発令、解除

湖東三山百済寺の紅葉

역동적인 나라 한국という言葉がしっくりくるよう

な出来事が起きました。力動的とは日本では動的と

か活動的とかダイナミックと訳されます。リウルの

脱落ですね。前回変革を起こす始動者になれと書い

たらユンソンニョル大統領が反応した!非常戒厳令

というので北朝鮮が攻めて来たのかと驚きましたが

そのような事ではありませんでした。野党からは反

対に、民主主義の時代に逆行する大統領の反乱とい

うような記事が大勢を占めて大統領弾劾の声が高ま

っています。一方、尹大統領は沈黙を続けています

が、前回の大統領選挙における不正を暴くために選

挙管理委員会の資料を押収することが目的だったと

のニュースも流れ始めました。何が起こっても不思

議ではない、ヨクドンチョギンナラが韓国ですね。

百済寺の庭園


2024年12月2日月曜日

601. 変革を起こす「始動者」たれ!

このブログも回を重ねる事、前回で600回。その

テーマである「飛鳥時代の前の時代って何時代?」

の中で飛鳥への最初の渡来人は檜隈民使博徳(ひの

くまたみのつかいひろとく)とありました。火の国

熊本から瀬戸内海を通ってやってきた新羅からの渡

来人の模様です。天文、航海の技術は新羅、建築技

術は高句麗、製鉄の技術は伽耶が長けていました。

百済からは538年に聖王が仏教を伝え、物部氏に

勝利した蘇我馬子が飛鳥寺を596年に建立して名

を法興寺、元興寺と呼んだ。本尊の飛鳥大仏は止利

仏師による日本最古の仏像だそうです。



推古天皇以降の飛鳥時代の歴史は詳細に研究されて

いるにもかかわらずその前の時代はというと古墳時

代であるとか漠然とした答えしか返ってきません。

記録に無い、或いはかき消された歴史を辿ることに

はとても興味が湧きます。ルーツを訪ねる旅も還暦

を越えて「始動者」として近江の国、犬上の地から

発信して行こうと思います。

2024年12月1日日曜日

600. 飛鳥時代の前って何時代?


飛鳥時代の前には政治の中心はどこにあったのでし

ょうか?奈良県高市郡明日香村のキトラ古墳と飛鳥

寺、岡寺を訪ねました。キトラ古墳は亀虎古墳なの

でしょうか?四神(玄武の、青龍、白、朱雀)

と十二支、金箔の太陽、銀箔の月と天文図が描かれ

ているそうです。近くには檜隈寺跡などがあり境内

にある於美阿志神社は阿知師主との関連があるそう

です。近くには檜前川と高取川が流れて墾田村を意

味する大根田という集落の名前があります。この地

域の渡来人の先祖はどのような経路を通って半島か

らやって来たのでしょうか。660年の百済の滅亡

と663年の大和朝廷の援軍による白村江の戦い。

その敗北で百済からの難民が沢山やって来た時は、

瀬戸内海を経由して住吉区、生野区、枚方市などに

やってきましたが、それよりももっと前の時代、渡

来人が持ち込んだ四書五経、千字文、建築、養蚕、

機織り、畜産、酒造、灌漑技術、薬草知識、土器、

鉄器等を持ち込んだ5世紀の渡来人はカラキ道を経

て近江の各地に定着し天皇家と姻戚関係を結びなが

らその後、都と定めた飛鳥に辿り着きました。

即ち朝鮮半島の百済、新羅、高句麗、伽耶等の国か

ら海を渡り、愛発関を越えて琵琶湖に着き東岸、西

岸、そしてある者たちは不破、美濃に居を構えた。

壬申の乱の時、大海人皇子は吉野から不破関に回っ

て大友軍に対峙しましたが、こちらには大海人皇子

の親族がいたようで合点がいきます。

朝鮮半島から様々な種がまかれて、琵琶湖周辺に根

付いた。それらの種はやがて芽を出し大木となった

り花を咲かせたりします。しかし、根は表には出ま

せん。根が表に出ると植物は枯れてしまいます。渡

来人は2世、3世と代を重ねながら帰化していきま

した。文化の種を持ち込んだ渡来人は各地で神様と

して神社に祀られている模様です。