2026年5月22日金曜日

672.672年 壬申の乱:天下分け目の戦い

天智天皇崩御に伴い即位した大友皇子(弘文天皇)

に対し、出家して吉野に居を構えていた大海人皇子

が兵を挙げたのが、壬申の年の6月で、不破(関ヶ

原)の戦い、息長横河の戦い、犬上川鳥籠山の戦い

を経て、約1ヶ月で大海人皇子が勝利し天武天皇と

なったのが壬申の乱です。父大海人皇子の吉野での

蜂起に呼応して、母尼子姫と共に近江朝廷を出た高

市皇子は、伊賀の柘植で父と合流、その後大海人皇

子は不破の野上に向かい高市皇子を和蹔(わざみ)

に派遣して軍を編成、終結させたとあります。近江

朝廷軍の動きを封じ込める最重要拠点であり、大海

人皇子も和蹔に入り、ここから二手に分かれて進軍

を開始した拠点だというのですが、未だ歴史学者に

よってその場所が特定されていない事実は正にミス

テリーです。以下は和蹔についてのハンちゃんの見

解です。

壬申の乱の後に…伊勢越えの要津

和蹔(わざみ/わざに)とありますが、綿向山の西

側、東近江市和南町には和南城跡が有り、和南川に

沿って藤切神社が鎮座します。この一帯は近江の古

代豪族蒲生氏가모(ガモウ・カモ)の拠点で、北に

向かうと依知秦氏、犬上氏、息長氏、坂田氏へと連

なる古代における琵琶湖東岸の重要拠点でした。こ

れらの豪族は本来大友側につく筈ですが、高市皇子

は母の実家のある犬上氏の拠点甲良町尼子を頼り、

形勢逆転に出た模様です。犬上の戦いでは、大海人

皇子が一時大友軍に囚われたが、安食の6人衆によ

って解放されたとの記録も残っています。後の時代

に行基が湖北から湖東に至るこの地域に四十九の寺

院を建てた。その第49番目のお寺が豊郷町四十九

院にある唯念寺です。行基は更に聖武天皇の時代に

は東大寺の大仏建立も成し遂げました。





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