天智天皇崩御に伴い即位した大友皇子(弘文天皇)
に対し、出家して吉野に居を構えていた大海人皇子
が兵を挙げたのが、壬申の年の6月で、不破(関ヶ
原)の戦い、息長横河の戦い、犬上川鳥籠山の戦い
を経て、約1ヶ月で大海人皇子が勝利し天武天皇と
なったのが壬申の乱です。父大海人皇子の吉野での
蜂起に呼応して、母尼子姫と共に近江朝廷を出た高
市皇子は、伊賀の柘植で父と合流、その後大海人皇
子は不破の野上に向かい高市皇子を和蹔(わざみ)
に派遣して軍を編成、終結させたとあります。近江
朝廷軍の動きを封じ込める最重要拠点であり、大海
人皇子も和蹔に入り、ここから二手に分かれて進軍
を開始した拠点だというのですが、未だ歴史学者に
よってその場所が特定されていない事実は正にミス
テリーです。以下は和蹔についてのハンちゃんの見
解です。
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| 壬申の乱の後に…伊勢越えの要津 |
和蹔(わざみ/わざに)とありますが、綿向山の西
側、東近江市和南町には和南城跡が有り、和南川に
沿って藤切神社が鎮座します。この一帯は近江の古
代豪族蒲生氏가모(ガモウ・カモ)の拠点で、北に
向かうと依知秦氏、犬上氏、息長氏、坂田氏へと連
なる古代における琵琶湖東岸の重要拠点でした。こ
れらの豪族は本来大友側につく筈ですが、高市皇子
は母の実家のある犬上氏の拠点甲良町尼子を頼り、
形勢逆転に出た模様です。犬上の戦いでは、大海人
皇子が一時大友軍に囚われたが、安食の6人衆によ
って解放されたとの記録も残っています。後の時代
に行基が湖北から湖東に至るこの地域に四十九の寺
院を建てた。その第49番目のお寺が豊郷町四十九
院にある唯念寺です。行基は更に聖武天皇の時代に
は東大寺の大仏建立も成し遂げました。

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