2025年12月23日火曜日

651. 朝鮮半島の三国時代とは?

古代史について考えるとき、隋、唐と並んでお隣の

朝鮮半島の三国からの渡来人という表現で高句麗、

百済、新羅の三国の名前がよく挙げられます。

ところが根拠となる「三国遺事」が李氏朝鮮の時代

の書物であることから見直しがなされています。

伽耶が金首露王によって紀元前1世紀に出来て以来

大伽耶が562年に滅亡するまで約600年間は、

四国時代であった。以後百済が660年に滅亡し、

668年に高句麗も滅んで約100年で三国時代は

終了します。統一新羅、渤海、高麗を経て李氏朝鮮

と日本統治、戦後に至るまでの1280年を経て、

1948年以降は、現在に至るまで南北二国家時代

となっています。

伽耶から敦賀への経路が見て取れます

そのような歴史の変遷の中、西暦400年に伽耶と

倭国による対新羅攻撃に対して、高句麗の広開土王

が5万人の派兵をして、伽耶の洛東江下流は大打撃

を受け、上流の高霊に加羅国(大伽耶)が、西方の

咸安に阿羅国(阿羅加羅)ができました。

任那日本府は大和王権が伽耶に送った外交使節で、

阿羅国の王は、倭を背後勢力として百済、新羅に対

抗しました。

伽耶の古墳としては、3世紀末から6世紀中頃まで

ありますが、特筆すべきは、殉葬が行われていた。

王の古墳には従者が複数葬られており、3世紀末の

金官伽耶の大成洞古墳群や、6世紀高霊の池山洞古

墳群からは40人余りの殉葬の例があります。

日本では、垂仁天皇が皇后の葬儀に際し殉死に代わ

る方法を尋ねられたとき、野見宿禰が埴輪を提言し

以降、殉葬は無くなったとあります。(埴輪の起源)




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