古代史について考えるとき、隋、唐と並んでお隣の
朝鮮半島の三国からの渡来人という表現で高句麗、
百済、新羅の三国の名前がよく挙げられます。
ところが根拠となる「三国遺事」が李氏朝鮮の時代
の書物であることから見直しがなされています。
伽耶が金首露王によって紀元前1世紀に出来て以来
大伽耶が562年に滅亡するまで約600年間は、
四国時代であった。以後百済が660年に滅亡し、
668年に高句麗も滅んで約100年で三国時代は
終了します。統一新羅、渤海、高麗を経て李氏朝鮮
と日本統治、戦後に至るまでの1280年を経て、
1948年以降は、現在に至るまで南北二国家時代
となっています。
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| 伽耶から敦賀への経路が見て取れます |
そのような歴史の変遷の中、西暦400年に伽耶と
倭国による対新羅攻撃に対して、高句麗の広開土王
が5万人の派兵をして、伽耶の洛東江下流は大打撃
を受け、上流の高霊に加羅国(大伽耶)が、西方の
咸安に阿羅国(阿羅加羅)ができました。
任那日本府は大和王権が伽耶に送った外交使節で、
阿羅国の王は、倭を背後勢力として百済、新羅に対
抗しました。
伽耶の古墳としては、3世紀末から6世紀中頃まで
ありますが、特筆すべきは、殉葬が行われていた。
王の古墳には従者が複数葬られており、3世紀末の
金官伽耶の大成洞古墳群や、6世紀高霊の池山洞古
墳群からは40人余りの殉葬の例があります。
日本では、垂仁天皇が皇后の葬儀に際し殉死に代わ
る方法を尋ねられたとき、野見宿禰が埴輪を提言し
以降、殉葬は無くなったとあります。(埴輪の起源)










































